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んごごごごごっっと 【2009/8/23】
今回のお話は叔父が亡くなった時に書いたものです。
祖母を中心とした話で、叔父さんの時の話に含ませてしまうと、あまりにも長くなってしまうなぁという点と、叔父さんの話とは直接関係ないかなぁと思ったので、あの時は掲載しなかったものですが、夏=戦争を振り返る季節だと思いますので、思い切って掲載します。

笑える要素は全くないのですが、別にウチお笑いサイトじゃねぇし。

テーマは戦争と現代です。暗い話が嫌いな人は是非とも読まないでください。

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≪祖母編≫

偶然の糸が寄り合わさって、現在という光が生まれる。

たった一本の糸でも外れてしまえば、今という現実からは遠く離れて行ってしまう。

今回はそんなお話。


≪祖母の写真、母の写真≫

おじさんの写真と共に、祖母の写真、母の写真を見る。

正直、これはビビった。

歴史の教科書ですか?これは??????

そんな印象しか持てないぐらい、古い時代の断片が、並ぶ!並ぶ!!!!

特にビビったのが、母だ。

戦時中生まれたとは聞いていたが、赤ん坊だった頃の母の写真、回りの大人達は軍服着てますけど!もんぺ履いてますけど!!! 日章旗振ってますけど!!!!

母は見た目が異常な程若く、今の年齢より大幅に若く見える人なのだが、改めてこうして現実を突きつけられると、やっぱり歳取ってんだなぁとつくづく思えてきてしまう。実際、自分は三番目の子供で、母がかなり歳を取ってから生まれた子供なんだけど、既に回りの友達の母親でも、戦争を知ってる人はほとんどいなかった。ほとんどが戦後生まれ。ウチのかーちゃん見た目は若いが、みんなより歳取ってるという事実が、小さい頃はちょっとだけイヤだった。←子供だなぁ、今になって思うと…。



写真は祖父が徴兵され、皆で見送る時の写真だ。



道路には都電が走り、壁には筆文字で書かれた戦中のスローガンが並ぶ。

戦争の話は母からも断片的に聞いた事があるものの、こうして写真を見せられると、現実という質量は一気に重量を増す。



こんなに昔の人なんだ…



祖母の写真も見る。



美人で驚いた。若い。そして痩せてる。



肉親だからひいき目に見ているワケでなく、戦前の映画女優みたいだ。他の人と写ってる写真で見比べても、どう見ても美人。はっきりとした目鼻立ちに、透き通るような瞳。この時代自分がここに居たら、好きになってしまいそうだ。

実は、自分の知ってる祖母のイメージは『ビッグママ』みたいな印象しかない。物心ついた時は既に恰幅が良く、更に豪快で男勝り。分かりやすく言うと、ラピュタに出てくるドーラおばさんのような感じ。

六人の子供と店を切り盛りした叔母は、戦後の強い母そのもの。

そんな「かぼそい」とは無縁な感じだった僕の知る祖母も、写真の頃は、まだまだ女の子。幼い面影の残る二十歳そこそこのかわいい女の子だ。


写真に写る祖母。


生まれたばかりの母を抱くその姿は、これから夫を戦地に送り込まなければならないという悲しみはあるかとは思うが、それでもまだまだ幸せそうな雰囲気。

カメラに向かってかわいらしく微笑んでいた。


この苦労知らずな幸せなそうな娘 は、その後、想像絶する地獄を見ることになる。



≪東京大空襲≫

東京。

この街に戦争の影は無い。ほとんど無い。

渋谷で死体が山のように積み上げられていた事 なんて、想像出来る表象は何一つとして無い。

まるで昔から平和で、この先もその平和が永久に続くとでも錯覚してしまうかのように。

東京大空襲とは、第二次世界大戦中、1944年11月14日以降に受けた106回の空爆の事を指す。

僕の祖母と母は、その空襲下の生き残りだ。

死者12万人。ヒロシマ、ナガサキが、15万9000人、7万4000人である事から比較しても、決して "何も無かった街" ではない。

東京大空襲2ヵ月後の渋谷、東横デパート方面。 焼け跡の道玄坂。

祖母と母がその死体のひとつになっていれば、僕はここに存在していなかったという事になる。


母の家系は代々東京の家系。江戸時代からここに暮らす家系だ。


その為、疎開するにもツテが無い。

(※疎開とは爆撃を逃れ一時的に別の場所に避難する事)


この街に留まる以外、選択肢が無かった。


結果、空襲下の東京に於いて、生命の糸をたぐり寄せなければならない。


生き延びなければならなかった。


焼夷弾、つまり自分達を殺そうとしている鉄の塊が、雨のように降り注ぐ日々。


空を見上げる。


焼夷弾には水色の布がついていてひらひらとはためくので、よく見れば分かるという。


その焼夷弾が着弾すると思われる方向とは別の方向に、走る、逃げる。とにかく全力で逃げる。


着火した場所から、火が上がる。家が燃える。


木造が中心の当時の東京は、一度火が上がるとなかなか止まらない。一瞬にして、町中が豪火に包まれてゆく。


「街中が鍋の中のようだった」 というのは、祖母の言葉。


全てを焼き尽くす、全員を殺し尽くそうとする地獄の炎が空から振り落ちてくる日々。


そんな東京。


その恐怖の中、錯乱する人も数多くいた。


気の弱い人から先に錯乱していったという。


近所に住む育ちの良いご夫人が、空襲中の防空壕の中で錯乱した。恐怖に耐えられなかったのだろう。防空壕の中、意味の分からない言葉を叫び続けた後、壕の扉を開けて火の中に走り出してしまった。もちろん誰も引き留められず、翌日焼死体になっていた。


空襲の惨劇



≪母と焼夷弾≫

そんな空襲下の東京、逃げ回る日々。

その晩も祖母は二人の娘、そして母を背負って、焼夷弾の火の海の中を走り続けていた。生存出来るわずかな隙間を求めて。

娘が「歩けない」とわめいても言っても、ほっぺたひっぱだいて引きずってったという。




ギャアアアアアアアアアアア!




背中から叫び声が上がる。


見ると、背負った赤ん坊(つまり自分の母)の足が、燃えていた という。母の足に焼夷弾の油が付着。そこから炎が上がり、おぶっている「布」に燃え移ろうとしていた。

祖母は慌てて、おぶっていた布を取り、そのへんにあった何か(何だかはもう覚えていないという)で、燃え上がろうとしている炎を必死に揉み消した。必死に、必死に。



その時祖母は思ったという。



「三人の娘の中、誰が減っても不思議ではない…」…と。




僕はこの話しを聞いた時、「減って」という表現が気になった。

死に対して「減って」という表現は、現代の人は使わない。 少なくとも、平和な時代しか知らない人々の発想としては。

それだけ「死」というものが、身近でありきたりなものとなってしまっていたのだろう。死に対しての感覚は、確実に 「麻痺」 していたのだと思う。



ただ、この時もしも、祖母が気づくのがもう少し遅かったら…、火を揉み消す事が出来なかったら…、



母は火に巻かれ、そのまま死んでいた事になる。



子供の手を引いて逃げている人が、気がつけば "手だけになっていた" という話が、よくあったという。体ごと吹き飛ばされてしまったのだろう。

もし立ち位置がもう少し悪く、爆風の直撃を背中に受けているようであれば、母は確実に死んでいた。僕もこの世にいない。


この幸運を、僕は神に感謝しなくてはならない。


母の足にはその時の焼夷弾の跡が今でも残っている。



第二部に続きます。


空襲で足の溶けたハチ公。ちなみに現在のハチ公は二代目。ちなみにこの溶けたハチ公像は戦中に金属資源不足により熔解されたとの事。


昭和9年に建てられたハチ公の初代銅像の除幕式



んごごごごごっっと 【2009/8/24】
今回のお話は叔父が亡くなった時に書いたものです。
その②です。 祖母を中心とした話で、叔父さんの時の話に含ませてしまうと、あまりにも長くなってしまうなぁという点と、叔父さんの話とは直接関係ないかなぁと思ったので、あの時は掲載しなかったものですが、夏=戦争を振り返る季節だと思いますので、掲載します。

僕が言いたい事は、実はあるようであまりありません。 ただ、最近の戦争番組は、沖縄だったりヒロシマやナガサキだったり、なんだか局地的な話ばかりがクローズアップされ、なんだか戦争は一部の地域だけで行われていたような錯覚 を感じてしまう事があります。

違うんです。僕らが暮らすこの東京で戦争は起きていたんです。

戦争を語る人のほとんどが老人です(←当然ですが)。若い人が語る事はほとんどありません。

そして戦争に対するイメージが、時代と共にだんだん変わってしまってきている ように思います。

僕は別に妄信的な平和主義者でも反戦論者でもないのですが、最近少し気になるのは 若い人達の間にある戦争軽視論 です。

まぁ一部の人達だけだと思うのですが、戦争を肯定する人が増えてるように感じる時があります。(特に某巨大掲示板とかでねw)

「戦争仕方ないんじゃね?」的な空気です。僕はここで戦争が正しいかどうかを論じるつもりは毛頭ありませんが(というかその答えはオレもわからん)、戦争を肯定する人達の発言が、戦争というのがどういうものかを理解した上での発言なのかどうかは 正直疑問です。

もちろんオレも戦争がどういうものかなんて知らんよw

だけど、昔も今も共通してる事実、それは 人が死ぬという事実です。

大切な友人や恋人や家族が、焼かれ、潰され、もがれた手足がミンチのように路上に転がるのが戦争です。昨日まで一緒に笑ってた仲間や家族が爛れた肉片へと変えられ腐蝕してゆくのが戦争です。当たり前だが 真っ先にミンチになるのは自分の可能性だってある。 戦争肯定者は自分は死なないとでも思ってるんじゃないのか?

スマートボム(精密誘導兵器)、ハイテク兵器、現代の戦争ではまるでその下に死者は誰もいないような錯覚すら覚える事がある。

ただ、この間のイラク戦争での死者は諸説あるものの、最小でも2万、最大で8万と言われている。←あんな短期間な戦争ですらだ。

昔も今も関係ない。人が死ぬのが戦争で、人を殺すのが戦争。これは昔も今も変わらない。

ただ、僕らの世代(←中年世代な!)が学校で学んだ頃のように「軍備を持たなければ戦争にならない」という程、世界は甘くなくなっている。昔より複雑になっている。「戦争はしない方がいい」という "心がけ" だけで平和を手に入れられる程、世の中簡単ではなくなっている。

攻め込まれる可能性もある。攻め込まれたら自分達を守る必要があり、それが戦争へと繋がる可能性は十分にある。

ただ、もし仮にこの国が再び「戦争」という手段を取る事があった場合は、(それはすぐかもしれないし、僕が老人になった頃かもしれないが)戦争の重みを理解した上で行って欲しい。 軽々しく始めないで欲しい。

ただ僕個人的には「なるべく戦争はしない方がいいんじゃね?」って派な考え方です。時代遅れかもしれませんが。


なるべくはね。


というワケで第二弾です!


タイトル付けるとしたら「空襲下の東京」…って感じかなぁ…。


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≪空襲 後期≫

「竹ヤリ」が渡された。竹の先を尖らせただけの、武器と呼ぶにはあまりにも粗末な代物だったという。

それで「飛行機が接近してきたら、それで引っかけて落とせ」と指示された時、"この国は絶対に負ける" と祖母は確信したという。



B29(米軍の爆撃機)が悠々と飛んでくる。



それは美しく、大きく、優雅に空を飛ぶ鯨のようだったという。


B-29


「米軍の爆撃機は何だかエンジン音も高級なのよ」というのは祖母の言葉。


そこに日本の小さい飛行機が一機ほど、ブーンというけたましい音を立てて、迎撃に向かう。


「認めたくないけど、日本の飛行機は音も安っぽいのよね」というのも祖母の言葉。



それを下から眺める。まるで街中のチンピラ同士のケンカを、野次馬として眺めるかのように。



「がんばれー!がんばれー!」と皆で声援を送るも、バババッ!ババッ!と打ち返され、たいていは数分で迎撃されてしまう。


「さ、逃げましょうか」と言って、皆で準備を始める。


そして爆撃が始まる。


最先端の科学力と圧倒的な物量で攻撃を仕掛ける米国に、竹ヤリで立ち向かえと指示を出す我が国。


どう見ても、状況は絶望的だ。


たいてい米軍は「爆撃予告」をしていたという。国民の戦意を喪失させる為だと思うが、「○月×日○時○分、○区から×区までを爆撃します」という、日本語で書かれたビラが空からまかれたという。

その時点で、優劣はもはや決定的だ。

米軍はその決められた日にち、決められ時間、決められた範囲をキッチリと爆撃し、悠々と戻ってゆく。余裕が違う。

渋谷。八幡通り付近。


つまり東京大空襲が始まった段階で、戦争は終わっていたという事になるのだ。


この時点で、日本にもはや、戦争を継続する体力はどこにも残ってないからだ。



戦争というより、単なる虐殺の色が濃厚になってくる。



その虐殺の中、奇跡に近い「生」という細い糸を求めて、日々人々は錯綜を続ける。絶望的状況に置かれながらも。



「死体は三日見れば慣れるわ」



と祖母は言っていた。

あまりにも多くの死を目の当たりにし、いちいち感傷にひたる余裕など、消え失せてしまったのだろう。


渋谷が死体で埋る。


今の渋谷からは到底想像も出来ない。


死体はそのまま渋谷川に捨てられたという。


あまりにも死体であふれた渋谷川は、まるで丘のようだったという。



現在の渋谷川。戦争の痕跡は今はどこにも無い。童謡「春の小川」はこの渋谷川の支川「河骨川(こうほねがわ)」を歌ったもの。今の姿からは想像も出来ないが、昔は水遊びが出来るような川で、橋から川に飛び降りるのが子供達の遊びだったらしい。
(母の話)



山のような死体は処理される事もなくドロドロに腐敗し、その肉を食う蛆(ウジ)が大量に沸く。ハナを付く腐敗臭と大量の蠅が街中に拡がる。もはや生命としての人の痕跡は何ひとつ残らず、ただ腐蝕した "物体" としてだけの肉塊が転がる。

現世とは思えぬ地獄が逃げられぬ現実として眼前に拡がる。


「見慣れた」という祖母の言葉は、本当に地獄を見た人でなければ分からない開き直りだと思う。


"毎日誰かが必ず死ぬ" という極限状態の日々。


「今日も生きてましたねー」


と近所に声をかけるのが、毎日の挨拶だったという。


ただ不思議な事に、祖母が戦時中の事について語る時のその話ぶりは、どことなくユーモラスで、何となく牧歌的だ。



それだけ追い込まれていたのだと思う。



絶望的状況で、ホントに絶望してしまうと、本当に死んでしまうのだと思う。

戦局がどうかとか、勝つとか負けるとか、そういう事はどうでもよく、ただ、ただ、生き残る事だけを考えた。

どんなに絶望的状況でも、絶望してはいけない、暗く考えてはいけない。


無意識かどうかは分からないが、祖母は極限状態にて、それを感じ取ったのだと思う。


そして写真の中で微笑む世間知らずだった娘は、何事にも屈しない、強くたくましい母親へと生まれ変わったのだ。



≪終戦≫


そして戦争が終わった。


祖母は空を見上げて、その場にへたり込み、思ったという。





「もう空から爆弾が降ってくる心配をしなくていいんだ…」





日本が負けたとか、そんな事はどうでも良かったという。




「終わったんだ…」




祖母の胸に去来する言葉は、ただ、ただ、それだけだったという。


ぐったりと力が抜ける。


国家とか敗戦とか、そんな事はどうでもいい。


ただ、ただ、生きている事が嬉しかったという。




しかしその後の日本は、戦後の大混乱と、飢えと貧困の日々を迎える事になる。



戦争が終わったからといって楽になるワケではない。



食べるものが無い。仕事が無く、金のない人々が、街中で盗みを働く。



泥棒がとにかく多く、祖母は毎日「棒」のようなものを枕元に置いて眠ったという。


それでも税金の取り立ては来る。


その度祖母は、「金なんてあるわけないだろ!この家のどこにそんな金があるんだ!」と追い返したという。



今が 「100年ぶりの不況」 だなんて発言、祖母の前では口が裂けても言えない。


携帯電話を持ち、エアコンの効いた涼しい部屋で暮らす僕らが、大変だなんて言葉、到底言う権利は無い。


言える筈が無い。


第三部へ続きます。次は「復興」です。



んごごごごごっっと 【2009/8/25】
今回のお話は叔父が亡くなった時に書いたものです。
その③です。 祖母を中心とした話で、叔父さんの時の話に含ませてしまうと、あまりにも長くなってしまうなぁという点と、叔父さんの話とは直接関係ないかなぁと思ったので、あの時は掲載しなかったものですが、夏=戦争を振り返る季節だと思いますので、掲載します。

その①とその②では戦時下の東京、つまり祖母から聞いた事を中心に記載しました。今回はその後の日本の復興の話を、少しだけ記載します。


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≪戦後、そして再生≫

光の全く見えない状況で、ただひたすらに続く現実との格闘の日々。


家族総出で働く。


六人の子供を育てなければならない。食べさせなければならない。


子供達は更に下の子達の世話をしながら遊ぶ。


妹や弟達をおぶって遊ぶのが、当時の子供達の姿だったという。


ただ、日本はそこから再び活力を取り戻してゆく。


焼け野原だった東京は、少しずつ "再生" を始めた。


日本回生の時代だ。奇跡の時代と言われたあの頃。


ただ、生活は厳しい。大人も子供も死ぬ気で働く。

母の家は魚屋。 幼かった母も物心ついた時から包丁を握らされ、毎朝学校に行く前に干物用のアジを100匹さばいてから家を出るのが日課だった という。 ちなみにそのアジは、庭先で干物にして売りに出してたそうです。渋谷で干物作るなんて今からは想像も出来ないですね。おかげで母は歳を取った今でも 魚さばくのはプロ級(というよりプロそのもの)です。5秒ぐらいで一匹仕上げてしまう。もはや神業。手元が見えんぐらい。


≪戦後からの脱却。それはいつぐらいか?≫

「焼け野原から復興したのはだいたいいつぐらい?」 と母に尋ねた事がある。

経済的意味合いでななく、そこに暮らす人々の "感覚" として。それがいつぐらいだったのか?という意味で。

「うーん、近くのバスの基地に暮らしていた人達が、マンションに引っ越した時ぐらいからかなぁ…」 と母は答える。


戦中生まれの母が、中学に入った頃 だ。かなり時間は経っている。


ここで言う 「バスの基地」 とは、今でも残っている。 渋谷から代官山方面行きの東急東横線に乗ると、進行方向左側に見える、都バスのターミナルの事だ。山手線からもギリギリで見えます。東横線だと走り始めてすぐの "ちょっと曲がり始めた" ところ。

←とりあえず恵比寿方面に乗ったら左側を見とけ!


そのバスターミナルの横には 渋谷区東二丁目第二アパート という、背の高い都営住宅が建っている。(名称はアパートだが、高さはマンションレベル)


←現在の渋谷区東二丁目第二アパート。電車からバスが集まってるところを血眼になって探せばたぶん見つかります!

僕も小さい頃、お店の手伝いをさせられた時、よくそのマンションまで飯台を取りに行かされたので、しっかりと覚えている。

ここで言う「バスの基地に暮らしていた人達」とは、戦後、住む場所が無く、その基地の焼け残ったバスの中で暮らしていた人達を指す。

空襲下、金属製だったバスは、タイヤは溶けたが、車体は焼け残った。 人々は雨風をしのぐ為、一時的にそこに避難していた。それが戦後もしばらく続いた。

その後、そのバスの基地の横に、渋谷区東二丁目第二アパートが建ち、バスの住人達はそのアパートへ優先的に転居する事が出来たそうです。

バスに暮らす人々がアパートへ移転したのを最後に、街中から戦後を連想させる象徴的なものがほとんど無くなった という。

そのバスで暮らす人々の生活、母もそのバスの家の中を何回か見た事があるそうなのだが、さすがに何年も暮らしていると工夫というか、楽しく暮らそうとする知恵 というか、最後の方はかわいいカーテンを掛けたり、ペンキを塗ったりとかして、しっかりガッチリそこでの生活を楽しんでいたようです。人間ってたくましい!!!


ここからが日本の本格的な "再生" だ。奇跡の大逆転が始まるのだ。



日本にようやく明るいニュースが入り始める。



皇太子妃美智子様のご成婚 が、戦後日本の最初の明るいニュースだったという。

皇太子妃決定の日、皇居へ向かう正田美智子さん

ニュースを伝える当時の新聞

平民から皇室に入った美智子妃の存在は、新しい時代の到来を感じたらしい。だから昭和の古い人達にとっては、美智子妃は特別な存在 のようだ。再生の証、復興の象徴。そして新しい時代の光と希望だったのだと思う。僕らが思う "天皇家" とは、また違う角度で印象を抱いているのだろう。



この頃からテレビが少しずつ普及していった。三丁目の夕日の世界ですね。テレビがあるウチに皆が集まり、入りきらない人は窓から覗き込んで見る世界。ご近所さんという言葉が死滅していなかった時代 だ。


皇太子妃美智子様のご成婚の前年 1958年東京タワー完成。
写真は完成直後の東京タワー。まわりに高いビルが全く無いのが印象的。
左下には現在もある「増上寺」が見える。ちなみにこの土地は元墓地。(寺のそばだけに)

←ちなみに現在の東京タワー。埋もれてますね、なんだかw

そして東京オリンピック ←この頃、高速道路が通り、新幹線が開通する。



今でこそ、いろんなスポーツイベントがあるのでオリンピックは数あるイベントの中のひとつにまでなり下がってしまった感もあるが、当時の人々にとっては まさに別格。 だから今政治家になって重鎮と呼ばれてるおっちゃん達(石原都知事とかねw)は、その時の興奮が忘れられずに オリンピック誘致に躍起になってるのだと思う。我々の世代感で行くと、2016年の東京オリンピック誘致は、実はどうでもいいのだがw

そして大阪万博。



この国が科学力、技術力で世界と渡り合えると証明した一大イベントだ。

この時、手を引かれてイベントに足を運んだ幼き少年達が、後の日本を技術力を支える優秀な科学者へと成長 してゆく事になる。

この頃から日本は、"追う側" から世界をリードする側に変わる。

Made in Japan は高品質、高性能の代名詞となったのだ。

高性能な車、高性能な電気製品。安いだけしか取り柄の無かった日本製品から一気に脱却し、安価且つ品質の良い高級品として世界を席巻してゆくこととなる。20世紀後半、日本が世界に果たしてきたその役割は大きい。

自分達の行ってきた事が世界に認められた瞬間。日本は再びその活力を取り戻したのだ。



時代の移り変わりと歩調を合わせるように、母も青春期を過ごす。



この頃の母の写真は、どれも希望に満ちた明るいものばかりだ。笑顔がどれも眩しい。


これから素晴らしい事が始まるんだ!新しい事が始まるんだ!


どの写真からもそういった『希望』のようなものを感じ取る事が出来る。


はっきり言ってしまうが、今の人達には出来ない笑顔。どれも清々しく、美しく、そして希望に満ちている。そして生命力に満ちている。


未来に対し何ら疑問も持たず、不安も持たず。



アルバムの写真は、途中からカラー になる。



そこからしばらく進むと、僕の従兄弟達が写真に登場してくる。もちろん僕も登場する。



その後日本は、何度かの不況を繰り返しつつも、バブル期という時代の頂点を迎え、その中身無き狂乱は一瞬で終わり、現在へとつながる。



現在はどうだ?はっきり言うが明るいニュースが無い。ニュースを見ても失業率だの下落だの、ロクな話が無い。



ただ、僕は思う、

あの頃の人達は、明るいニュースが無いなどとはあまり嘆かなかったのではないだろうか?



明るいニュースが無いなどと言う前に、自分達でそれを創ろうと考えた世代だ。事実彼らはそれをやり遂げてきた。実現させてきた。



無ければ作ればいい、悪ければ変えればいい。



そうして彼らは道無き焼け野原に "道路" を作り、建物を作り、船や港や空港を作り、車を作り、電気製品を作り、


この国を作ったのだ。


世界トップクラスのこの国をね。


僕らが暮らすこの素晴らしい国をね。

現状を嘆くヒマがあれば、自分で変えればいいじゃないか!?!? 自分で動けばいいじゃないか???

今を嘆く僕らの声をあの頃の人々が聞いたら、そんな事を言われそうな気がする。


「貴方幸せですか?」と聞かれた時、今どれだけの人が「幸せです!」と答えられるだろうか?


同じ質問をされたら、僕はどう答えるだろうか?


答えはたぶんNOだ。


何故だ? それは分からない。


僕が弱いといえばそれまでだ。ただ、それが真実なのだと思う。


僕らは生まれた頃から全てが揃っていた。だから 自ら道を切り開き、手に入れるという能力が欠落しているように思える。


僕らの大半は、これだけ恵まれた環境にいるにも関わらず、夢や希望を見いだせずにいる。ただただ時間と物質を "消費" している。僕も含めて。


今の時代に流れる、この漠然とした重たい空気は一体何なんだ???


仕事に行っても、イヤな事ばかりだ!毎月のように部署が減り、人が減り、挙げ句の果てには減給だ!みんな絶望的な顔をしている!いつもみんな暗い顔をしている!仕事増えてるのに給料減らされ、挙げ句の果てにサービス残業もするなって、どういう魔法を使えばいーんじゃい!


ただね、

この国や僕らも、まだ何も失っちゃいない。

まだまだ可能性は山のようにある筈だ。


見えてないだけなんだよ。光がまだ見えてないだけなんだよ。


きっとある。どこかにある。


それを見つけよう。見つけていこうぜ!まだまだこれからなんだよ。この国も、そして自分達の人生も。


個人的意見だが、30過ぎたって言って嘆いてるアホども!!!! おまえらは人生の折返し地点に来ただけでもう諦めるのか!!!! まだ半分だろが!!!! まだまだこれからだろが!!!!! 先頭集団が全員脱落してトップに躍り出る可能性だってあるんだよ!!!! コツコツやってたら全員抜いてました!なんて事が起こっても不思議じゃねぇんだよ!!!!

だからがんばりましょうw

もう少しがんばりましょうw

年齢ぐらいでガタガタ抜かすな!!!! イチイチ年齢のせいにすんな!!!! 体力落ちたなら二倍がんばればいい。 それだけの話だ。

開き直れ!笑って流せ!!!!

そして強く生きてくれ。

僕はがんばっていても上手く行ってない全ての中年を応援したいと思う。全ての冴えない中年共(含む俺)を応援したいと思う。


がんばろーぜ。まだまだこれからだよ!


あ、話それまくった。



次回最終章。祖母の話にまた少しだけ戻ります。




んごごごごごっっと 【2009/8/26】
今回のお話は叔父が亡くなった時に書いたものです。
最終章です。 祖母を中心とした話で、叔父さんの時の話に含ませてしまうと、あまりにも長くなってしまうなぁという点と、叔父さんの話とは直接関係ないかなぁと思ったので、あの時は掲載しなかったものですが、夏=戦争を振り返る季節だと思いますので、掲載します。

その①とその②では戦時下の東京、その③ではその後の日本の復興について少しだけ記載しました。今回が最終章です。

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≪イントロダクション≫

「昭和美化」 のように感じる時があります。

昭和を振り返り、あの頃は良かった!あの頃は素晴らしかった!と振り返るムーブメント。それが最近顕著なような気がします。

ただ、あの頃は 本当に手放しに100%素晴らしかったのか?…と疑問を感じる時が、たまーにあります。

まぁ、前回、前々回の更新で昭和万歳!あの頃は素晴らしいんだ!みたいな事書いてた自分が言ってもあまり説得力はありませんが、いつの時代も良い側面と悪い側面 があるものです。

そしていつの時代も、必ず 今を否定する人 がいます。


例えば、昭和30年代。


今でこそ 美化されまくりな昭和30年代 なのですが、当然 否定 してた人もいます。

ノーベル文学賞受賞作家、
川端康成です。


【川端康成】
日本文学界の巨匠。代表作:伊豆の踊子、雪国等。

彼は次々と作られる道路や新しく建てられる鉄とコンクリートで出来た建物を、"美しき日本を汚してゆくもの" として痛烈に非難しました。

「扇風機の登場で街から打ち水が消えた」とか「ビルのおかげで日本家屋が駆逐された」とか、そんな感じで。

ただそれは あながち間違ってなかったように思う。あの時代を境に、ゆったりとした時の流れがこの国から消えた。

映画三丁目の夕日では、新しい建物や道路など(東京タワー、高速道路など)は、『希望の象徴』 として描かれていたのとは 対照的 です。


例えば、80年代。


SONYが発表したウォークマンは瞬く間に世界を席巻し、Nintendo が世界語となった時代だ。Made in Japanに世界中が憧れ、Japanマネーは世界を席巻。カネ余り日本、金満日本として、誰もがこの栄光が永久に続くと信じて疑わなかった。

下から吹き上げる風に身を委ねてゆくだけでふわりと浮き上がれそうな時代。


もちろんこの80年代を否定していた人もいます。


あの 手塚治虫 です。

【手塚 治虫】
日本漫画界の巨匠。代表作:多数

彼が気に掛けたのは子供達。殺人ゲーム(彼はシューティングゲームの事をそう呼んでいた)に熱中する子供達を見て、"理解出来ない" と嘆いていたそうだ。 彼らが大人になった時この国はどうなってしまうのだろう? と。

【作品名】
「1985への出発(たびだち)」
彼はここで当時の子供達とそれを取り巻く時代背景を描く。

ただ、あの頃ゲームに夢中になっていた子供達(=今の中年)がロクでもない大人になったかというと、そうでもなくて、 まぁ100点とまではいかないけど、あんがいがんばってやってると思います。

そして今の中年達(俺たちの事なw)は、子供だった頃の80年代を振り返り、一緒に遊んだゲームの熱狂や、面白かった漫画、そして当時の流行を振り返り、懐かしい気持ち にひたったりもします。

そして最後に出るのは↓このひと事。

「あの時代って最高だったよね。」

つまり時間が経つと必ず人は、悪い側面をぜーんぶ風化させちゃって、イイ面ばっかり思い出すみたいなんだな。

冷静に振り返るとサ、80年代なんて手放しに素晴らしい時代とも言えないワケですよ。 僕のいた地域だけの話かもしれないけど、僕の記憶している80年代は、とにかく "暴力" だった。とにかく治安が悪かった。高校生が中学生、中学生が小学生をカツアゲしてゆくというイヤな風潮が日常になっていた。落ち着いて街中なんて歩けなかった。警察も学校も何も助けてくれなかった。

終盤はバブルだ。バカみたいにみんなカネカネ言い始めて、一般の学生向け服飾雑誌ですら20万もするようなシャツとか平気で掲載するような始末。←更にそれがバカバカ売れてたというあり得ない状況。自ら働くよりも、"働かずとも利益を得る事" ばかりを考えていた時代。普通に働く事が "アホ" のように思えてしまう、歪んだ発想の時代。

ただ、"時代" はそういう事を全部棚上げし、"あの頃は良かった" と美化して振り返る。

はっきり言ってしまえば、昭和30年代も80年代も、単なる
"一時代" なんですよ。
いい面もあれば、悪い面もあれば。時間が経った為、いい面だけをクローズアップしてるってだけで。

今の時代だって20年もすれば確実に美化するヤツが出てくる。←これは間違いない。

例えば80年代当時、一大社会問題だった 暴走族 ですら、今は美化されている。「奴らはみんな根はイイヤツだ」とか、「あそこには友情があった」とか。僕の知ってる年上の暴走族連中は単なるチンピラでしたけどね。暴走族を美化するヤツが出てくるなんて当時は夢にも思わなかったよ!

あと10年もすれば90年代に流行った「援交」も美化する輩が出てくるように思う。あの頃には夢があったとか、自由があったとか、そんな感じで。

まぁ僕の言いたい事としては、時代には両側面がある という事。
そして過去は 常に美化されて語られている という事。

"もう若くなくなった人たち" によって作られた、現実とは乖離し誇張に満ちた世界、それが 『過去』 なんです。


つまりフィクションなんですよ、結局。


≪フィクションとしての過去≫

僕が今回書いている事も、厳密に言えばフィクションなのかもしれない。だってもうその時代は終わってるし。

ただ、わし思うのですが、もし仮にそのフィクションが、"今を生きる僕らの力" になるのならば、それはそれでいいように思います。
確かに "誇張" かもしれないが、それは 時代の一側面 であった事も確かなワケだし。

だって、今の状況が悪くて、更に未来が不透明な状態で、それに加えて「昔も酷かった!!!」 なんて言われたら、死にたくなってくるでしょw

だからいーんです。美化してればいーんです。


存分に美化して、存分に誇張して、そしてこの先の未来をちょっとだけ楽観した上で、元気に生きていければいいんじゃないかなぁなんて思います。



という事で、もう少しだけ美化話につきあってくださいねw



昭和美化最終章、「祖母の現在」です。


(※昭和30年代は厳密に言うと、1950年代後半から1960年代前半までを指すのですが、それだとたぶんイメージが沸きにくいだろうという事で、あえて "昭和30年代" という記載方法を取りました)


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≪祖母の今≫

さて、そんな過酷な戦中と戦後を生き延びた我が祖母なのですが、実はまだ生きてます。そろそろ90歳です。

ウチの祖母は少女時代に関東大震災も経験してるから、ホントにしぶとい人だと思う。生命力が強い。なかなか死なない。

ただ、もう頭は完全にボケてしまってますね。←これは老衰のボケです。話はもう噛み合いません。

叔父が亡くなった時、祖母に少しだけ会った。


「たぶん会ってもこうちゃんだって分からないと思うよ」


と、叔母に言われた。

祖母の前に僕は行くと、叔母は大きな声で、「こーちゃん!こーちゃんが来た!分かる!こーちゃん!三人目のみっこ(←ウチの母の事)のところの二番目の息子!こーちゃんが来たよ!」と叫ぶと、一瞬、「は?」という顔をしたのだが、しばらくしたら、にこーっと笑ってくれた。


くりくりな目、透き通るような目、


元気だった頃、僕によく見せてくれた笑顔だ。


特に何も言わなかった祖母。


叔母は「ダメだ。わかんないみたいね。」と言ったが、叔母はたぶん、僕の事を分かってくれたと思う。そう信じたい。そう思っておく事にしよう。

最近になって知った事だが、 祖母は戦後の不良少年達の更正員(指導員)というのを、ボランティアでやっていたそうだ。

戦後の不良少年は、いわゆる "今の不良" とは違い、親を亡くし、家族を亡くし、生活の為に盗みを働いていた少年達の事。

彼らに声をかけ、面倒を見るボランティアをしていた。

時々彼ら不良少年達を集めて、皆で秋葉原の交通博物館(新幹線のアタマの部分が入り口に置いてあった建物)までよく遊びに行っていたそうだ。渋谷から皆で都電に乗って。


その交通博物館も、今はもう無い。



参考:交通博物館

Web:交通博物館
http://www.kouhaku.or.jp/


不思議と祖母はロックが大好きだった。エルヴィス・プレスリーの大ファンで、いわゆるオールディーズを好んで聴いていた。「ワタシアメリカ大好きだから!」とよく言っていた。

自分達を殺そうとした国の文化。それを手放しで好きだという祖母はちょっと不思議な気がする。ただ、そういうのを抜きにして、いいものはいい!好きなものは好き!という人なんだと思う。

明るくて派手で大胆だった輝くあの頃のアメリカ文化。行けるなら世界中を旅したい!というのが祖母の夢だった。

もう叶わない夢だけど。


≪食卓≫

母から聞いた話なのだが、あの頃祖母の家では、いつも誰かが食事に混じっていたらしい。家族の食卓、いつも誰かがちゃっかり食事に混じってて、そんな状況が当たり前のように生活してたという。

そのヘンの近所の人とか、中には全く知らない人とか。

祖母はそういうの全く気にせずに、ハラ空かしてる人を見ると、いいから食ってけ!気にするな!って感じで、食事に迎え入れていたという。

貧しかった時代、誰もが食うのに困っている時代。自分達も貧しかった筈なのにね。

だけど、食卓はいつも人にあふれ、幸せな空気が流れていたという。

納豆を取り合って喧嘩になったりとかw


祖母は困ってる人をほっとけない性格なんだと思う。よく言えば世話好き。悪く言えばバカ。自分も貧しかったのに、それでも人に何かを与え続けていた。損得抜きに。

今の僕らはどうか?

これだけ恵まれてるのに保身に走っている。 たいていの事を、多かれ少なかれ、"損得" で判断する。自分に "得" の無い事はしない。大人になるとそれが更に顕著だ。

人を好きになる時ですら"条件"を並べ、"損得" で判断する。この人の年収はいくらか?とか、この人の将来性はどうだ?とか。そうやって人を選ぶ。そうやって、愛する人ですら "基準" を設け、"自分に対しての損得" で判断をする。

日常の行動指針も、 "損得" を中心に判断してゆく。

自分への利益。意識してる場合もあれば無意識の場合もあれば。
余裕のある無しに関係なく。

僕の言いたい事しては、 ウチの祖母のような人は当時は珍しくなかったという事だ。 ウチの祖母だけが特別というワケではない。みんながそうして助け合って、喧嘩して、ガチャガチャしながら時代を必死に回していたんだ。


豊かになった分、僕らは心が貧しくなったのだろうか?


手に入れる事ばかりに気を取られた結果、与えるという事を忘れてしまったのだろうか?


その祖母もその後、必要以上に元気の有り余る多くの孫達に囲まれ、幸せな晩年を過ごしてると思う。

今ボケてるけど顔がツルッツルなんだよねw めちゃくちゃぷるぷる。血色良すぎ!脳は退化してしまったが、いつもどことなく『幸せそうな表情』をしている。下手するとオレより健康なんじゃないかと思うぞ。





幸せってなんだろね?





テレビの前でコンビニ弁当を一人食ってる時は、つくづくそう思う。


彼女がいた頃は、コンビニ弁当でも楽しかったんだけどねw


コンビニのカルボナーラはここが一番おいしい!とか、ひとつの弁当二人で分けて食べたりとか、彼女の苦手なもの食べてあげたりとか。


今はそういうの無い。


一人で摂る食事はなんだか味気なく、単なる義務に成り下がっている。


幸福の鍵って、結局は「人」なのかもしれないですね。



時代が変わっても、生活が変わっても。



生活が辛くても、将来が不安でも、一緒に歩んでくれる人がいれば幸せになれるのかもしれない。


なんとなく、そんな気がします。


つくづく思います。


今になって思うと。



以上です。








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